【HISTORIC】秋田県の城下町「角館の武家屋敷」であそび旅まなび旅

トヨタのハイエースで行く!春の東北・秋田県「角館」へ

トヨタのハイエースで旅しよう。

今回のハイエース旅は春の秋田・角館へ。2023年4月、東北の桜も満開になったとニュースが報道されたので枝垂れ桜で有名な秋田・角館を訪れました。角館といえば

  1. 枝垂れ桜
  2. 武家屋敷
  3. 江戸時代の街並み

というイメージですね。

春の枝垂れ桜、秋の紅葉で有名な角館とは一体どのような街で歴史を刻んできたのかを見ていきます。

みちのくの小京都「秋田・角館」とは

秋田・角館は江戸時代に栄えた城下町で「みちのくの小京都」と呼ばれる街。

角館は秋田県の中央部に位置する場所にあります。角館には今でも武家屋敷や古い建物が多く残っており、公開されている武家屋敷は実際に入って見ることができます。また、江戸時代に書かれた古地図を見ても現在と同じ区画で街並みが残っているため、古地図散歩もできる貴重な町なのです。

日本人も海外の観光客にも人気が高い角館について、歴史を紐解いていきます。

秋田「角館」の歴史とは

秋田・角館の歴史はおよそ500年前まで遡ります。

戦国時代の角館は、戸沢氏という大名の本拠地でした。戦国時代は大名の争いが絶えず続いており、戸沢氏は室町時代に角館城を築きました。角館城は武家屋敷の北側に三方を山や川に囲まれた天然の要塞としてお城を構えて東北の勢力争いを繰り広げていきます。そして1570年頃に戸沢氏は秋田・仙北地方を支配下に収めることに成功するのです。

そして時が経って1590年に豊臣秀吉の小田原征伐が開始されると、角館城主の戸沢氏も小田原へ駆けつけました。その後、1600年の関ヶ原の戦いでは角館の戸沢氏は東軍に味方しましたが、成果を上げられず角館から常陸国(茨城県)へ所領を移されました。

秋田「角館」の基礎を造った芦名氏とは

江戸時代の角館城主だった戸沢氏が常陸国へ去った後、芦名氏が新たな角館城主として治めていきます。

角館は「1620年に芦名氏が古城山の南側に街を造った」というところから始まります。元々は古城山の北側に角館の街がありましたが、水害や火災に見舞われていました。そこで山と川に囲まれた南側が城下町の防衛に適していると考えられ現在の地に町が築かれたのです。ちなみに芦名氏の墓地は角館駅から徒歩15分程の場所に今もひっそりと佇んでいます。

秋田「角館」の武家屋敷が誕生するキッカケ

角館の城主となった芦名氏は、町づくりをスタートします。

角館城は三方を山や川に囲まれていますが南側は開けていました。そこで芦名氏はこの南側に城下町を造っていきます。ここで築かれた城下町が現在の角館・武家屋敷通りとなっているのです。また、武家屋敷通りは角館城の防衛としての機能も併せ持つために碁盤の目のような直線ではなく、曲がり角のあるクランク状に設計されています。さらに武家屋敷の門も低めに作られており防衛施設としての機能も果たしているのです。

角館の武家屋敷通りが直線でない理由が分かると思います。

秋田「角館」に京都の文化が入ってきた理由

角館の町づくりをスタートした芦名氏でしたが跡取りがいなくなったため、佐竹家の分家であった佐竹北家が角館を収めることになります。ここで角館の初代当主となったのが京都の公家出身の佐竹義隣。初代当主の佐竹氏は角館に京都の文化を積極的に取り入れていきます。

初代・二代目と京都の文化を多く取り入れた結果、角館は「みちのくの小京都」として町並みが完成されていくのです。

ちなみに佐竹義隣は元々は京都の公家であった高倉家でしたが、高倉家から佐竹家に養子として入りました(母親が佐竹家の娘)。初代当主の佐竹氏の家、高倉家は衣紋道(装飾に関する知識や技術)の家元。二代目当主の妻も花道と香道の家元でした。

角館に京都の文化が入ってきた理由は、初代・二代目と京都の公家だった家柄や代々伝えていく家元としての伝統や誇りが角館に多くの京都の文化を取り入れられた理由なのでしょう。

秋田「角館」に桜がある理由とは

角館は春になると枝垂れ桜やソメイヨシノなどの桜が一斉に花開きます。

この景色を見るために多くの観光客が訪れるのは有名でしょう。「みちのくの小京都 角館」になぜ多くの桜があるのかという謎について迫っていきたいと思います。

角館の桜は、佐竹家二代目の妻が京都から嫁入りする際の道具の一つに桜の苗木があって、その苗木が角館の桜の元になっていると伝えられています。これは今から350年前の江戸時代のことです。冬は雪に閉ざされる角館も春になると一斉に桜が花を開く。この光景を見た角館の人々が枝垂れ桜を植えて毎年楽しむようになったのです。

ちなみに川沿いに見られる桜(ソメイヨシノ)は、1934年に天皇の誕生祝いに町民が川沿いに桜を植えたものが現在に至ります。

秋田「角館」に江戸時代の町並みが残る理由とは

江戸時代からの町並みが角館に残っている理由は、戊辰戦争まで遡ります。

戊辰戦争とは1868年から1869年に起こった旧幕府軍と新政府軍との日本統一戦争のことを言います。戊辰戦争は日本各地で戦いが行われており、東北戦争・会津戦争・箱館戦争へと繋がっていきます。

ここで秋田・角館がどのように関係しているのかというと。

秋田全域を領地としていた久保田藩は新政府側に付きます。しかし、東北諸藩は奥羽越列藩同盟を組んで旧幕府側に付きました。そのため角館は奥羽越列藩同盟に攻め込まれることになりますが、角館の城下町より南の玉川で戦いが行われました。角館が付いた新政府側が劣勢ではあったものの、東北諸藩が次々と新政府軍に降伏していったことから奥羽越列藩同盟側が撤退したことで角館は戦火を免れることが出来たのです。

江戸時代の町並みが今も残る理由は、秋田の久保田藩が新政府側に付いたからなのです。

【さいごに】秋田「角館」で”旅する楽しさ”とは

江戸時代からの町並みが残る角館。

角館の歴史散歩は武家屋敷や枝垂れ桜など目で見て楽しむことができる場所です。四季折々の美しさは心に残ること間違いないでしょう。また訪れる季節を選ぶと、春には枝垂れ桜、秋は紅葉などその美しさが目の前に現れます。

秋田・角館に旅に行ってみてはいかがでしょうか。

今回紹介した内容を動画で見てみませんか?YouTubeで動画を見ることで「角館」の旅の楽しさに触れてみるのも良いかもしれませんね。

秋田の角館はイイところですよ。